今日は【微熱日記】。他愛もないつぶやきをぼそぼそと(長くなっちゃった)。
ここ数年同じテーマで書こうとしてかけずに下書きが溜まっている。書きかけた原稿のタイトルは「食べ慣れるということ、好物の解像度」「ルールと最適化」「裏か表か」そして今回のこのタイトル。どうやら自分はこれらの原稿で基本同じことを書こうと思っているらしいのだけど、途中でうまく言葉にならなくて投げ出している。たぶん「評価」がキーワードだ。結果としてもういくつか書くかもしれないが、今の時点で言葉にできるところを書いてみようかと思う。迂回は多いと思うが、誤解をおそれずに。
ちなみに、色々書いているが、農家の方や品種改良の努力に文句をつけているわけではないのは、あらかじめ言っておきたい。
キュウリは好きな野菜だと思う。「思う」の部分は最近美味しいものに出会うことがまれだからだ。こういうと、「最近のトマトは青臭さがない」と嘆く先輩方のようで、美化される記憶と比較される現在の問題にも聞こえるが、そうではない。「美味しそうに見える」キュウリはいっぱい売っている。あ、「そうではない」、でもなく製品の均質化・質向上という意味では、青臭いトマトと同じ話かもしれない。
なんかよくわからんことを言っている自覚はある。言いたいのは要はこういうことだ。
(昔)色々ある中でトゲがとがっているキュウリを選ぶ ⇒ 他より美味しい気がする
(今)ほとんどのキュウリがとがったトゲを持っている ⇒ 結構ハズレを引く
最近はどうかわからないが、小さいころ母に買い物に連れられて行くと、美味しい野菜、まあそれは大概新鮮な野菜を意味するのだが、の見方を教えられた。キュウリはトゲがしっかりしているもの、キャベツはもってみて重いもの、なすはヘタの先の部分が長いものー古いものはしぼんだ部分を見栄えのためにカットするからどんどん短くなる、等、ある種の特徴抽出の手がかりだ。ただし、この際に美味しかった・美味しくなかったのフィードバックは来ない。母がいつも自分で選ぶからだ。母の中ではルールと結果の関係はブラッシュアップされていたと思うが、自分で料理をしない時代の私にはその点は共有されていなかった。この時点では「キュウリはトゲのしっかりしたものを選ぶべし」というルールだけが私の頭に残った。
初めて自分でお金も含めて買い物と料理をコントロールするようになったのは、海外で暮らし始めたときだった。知らない野菜、同じ名前の違う野菜。キュウリは日本でみたものの3倍ぐらいのサイズで、水分も表面を触った感じも全然違っていた。トゲもほぼない。一回の食事ですべて使い切るのは無理で、冷蔵庫のなかで少々しなびていくキュウリをなんとか食べることを模索していた。ここでは見た目と状態・味・買ってきてからの鮮度のもちなど、昔の記憶を参考になんとかオリジナルのルールを作るしかない。この時は自分なりに見た目と味の関係がうまくとれていたような気がする。
それから帰国して紆余曲折あり、今は完全に自炊していた時代に比べれば、ほとんど台所のコントロールを手放しているのだが、週末の買い物だけは運転手として出かけるので、週末の料理と買い物から感じたのが、上に書いた(昔)と(今)だ。
ちなみに、わりと最近のネットの「美味しいきゅうりの見分け方」を検索してみたが、やはり、「トゲがしっかり」「表面に張りがある」「まっすぐ」で、基準は新鮮であることだった。このルールに変更はないようだ。キュウリのあく抜きの話もよく聞くが、昔はそんなことしていなかったし、今感じている変化とはちょっと違う話だと思っている。
ハズレをひきまくった我が家はどうしたか。キュウリの食卓への出現頻度が下がった。なにせ、美味しそうなマグロを見つけたから、キュウリもみで...あれ?みたいなことが続くと、もったいないから刺身で食べたいとなるわけだ。とはいえ、キュウリは好きなのでできれば普通に食べたい。
そこでハズレと感じたキュウリの特徴を考えてみた。見た目新鮮なのだが、切ってみると種が大きくて時間がたってしまったような感じの中身、みずみずしさがなくズッキーニみたいな均質な見た目と食感、やっぱりあくっぽさは強いきがする、塩もみにしたときに滑らかでない。うーん、これは結局「新鮮そうな外見を保つのが長いキュウリ」なんじゃないだろうか。試しに近所のJAで朝取りのキュウリを買いに行って食べてみたら比較的ハズレがなかった。「新鮮である」が「美味しい」と比較的イコールである関係は保たれているようだ。
まあ、商売や農業について全くわからない私の感想なので、ただのつぶやきにすぎないのだが、結局のところ「売れること」「管理のしやすさ」のために「美味しそうな外見」が「味」よりも優先された結果なのかなあと思ったわけだ。まあ、お客さんのニーズに細かく応えるよりも効率化を軸にしないとやっていけない現代の一部に過ぎないのだろう。
基準の意味するところ
長々とキュウリの話を書いたが、ここで気になっているのは「基準」「ルール」から逆算されて作りだされるもの、ということだ。新鮮なキュウリの特徴を基準にして買い物をする(その場では食べられないから)から、この特徴を目指して製品を作る。この場合、商品が新鮮である・味が良いとしても、見た目がこの特徴でないと売れないのだからそうなる。選んでいる人が客なのか、店の人なのか仲買なのかはよくわからないけど。
こういう目的(ゴール)から作られたルール(あるいは評価)が、途中で目的に成り代わった結果、最初の目的に見合わない、あるいは逆の効果を生んでしまうということは結構ある。ぱっと思いつくのは、受験勉強だ。おそらく入学試験というのはこのぐらいの学力(全般的な意味で)の人はこのぐらいの問題を解けるであろう、あるいは最低限このくらいの問題が解ける人なら大学の授業について行けるだろうということで問題を設定しているのだろうと思うが(すくなくともその意義としてはね)、「その問題に正解を書く」ことが目的に成り代わった結果、受験科目に出ない科目はやらない(とにかく大学には入れたらいいので、世界史とかいらんみたいな)、出題されないものはやらない、そして究極的には解答できさえすれば本人が中身を理解する必要がない、というレベルに到達している気がする。まあもちろんこれはキュウリの場合と一緒で、「売れないことには始まらない・とにかく売れたらいい」「入学できないことには始まらない・入学しさえすればなんとかなる」という、作り手や学生からみた目標から考えれば合理的ではあるのだけれど、その結果は決して幸せなものになっていないと私は思う。まあ逆に考えれば、「美味しい野菜をを届けたい」「大学生として学びを深めたい」では済まない苛酷な競争が作り出しているといえばその通りなのだが、そこはぐっと踏みとどまってなんとか目的の共有は出来ないのだろうか、と思ったりするのだ。だって、大学に入ってから「その勉強方法は大学では通用しないと思ってください」と言われるものを何年もかけて詰め込んでいく(そして人によってはそこから脱却できない)なんて、誰にとって意味のあることなのだろう。受験勉強していたので、本が読めないとか、よくわからない。
なんとなくこの手の問題を考えるときに浮かぶのは近江商人の「三方よし」の考え方なのだが、
近江商人がつちかってきた商いの精神「三方よし」。「売り手によし、買い手によし、世間によし」すなわち、「三方よし」。
その意味は、「商いというものは、売り手も買い手も適正な利益を得て満足する取り引きでなければならない。そして、その取り引きが地域社会全体の幸福につながるものでなければならない」という共存共栄の精神を表しています。
https://e-omi-muse.com/omishounin/about6.html 近江商人とは 家訓 東近江市近江商人博物館より
こういうことって普通にうまくできないもんなんだろうか。まあ「世間」をどこに設定するかが共有できないという問題は常について回るとは思うし、教育に消費者の概念は入れたくないのだけれど。
ルールが生み出すもの
法律はちゃんと勉強したことがないので、何を言っとるのかぐらいのレベルの話かもしれないが、自分の身の回りぐらいのお話でもルールとは難しいものだなと思う。これまでの5年ほどの間、パンデミックのせいで、ものすごいたくさんの新しいルールが生み出された気がする、公的にも私的にも。その中でなんどとなく話題にあがったのが「下手にルールを作ると、そこまではいいと思う人がいるので、作らない方がいい」という話だ。またこの話と表裏一体な気もするが、なぜそれをしてはいけないのか?の問に「〇〇という法律があるから・内規があるから」という答えで満足してしまう人にも良くであう。もちろん一面的にはそれであっているのだけど、本当にそれでいいのだろうか。
ルールというのは自由という問題と大きくかかわっていると思っている。まあ様々な人々ができるだけ幸せに自由に暮らしていくためのルール。だから罰則や制限が生じる条件は、私たちがちょっと嫌だなと思うレベルからすればかなり先の方の重篤な事象に関連づけられて設定されている。また場合によって単純な事実関係だけではルール適用が難しいので、ルールの「運用」という問題が生じる。権力の行使の決定に関して専門家の判断が必要なグレーゾーンが生じてくる、簡単に自由の制限をされても困るのでこれはもちろん大事なポイントだ。つまりよくはないが罰するほどではない、などの状況があるはずなのだが、「ルールのぎりぎりのラインを狙うのが正解」「○○は駄目、ということはそれ以外は良い」という解釈をする人が少なからずいる。なぜこのルールが作られるに至ったか、このルールの目指す大きな目標は何かという文脈がその行動にはない気がする。もちろんあえて、わかっていてそれをしなくてはならない時というのもあるのだが、この「わかっていて」というのが大事なところだと思う。
だから何かというと「ルールを作りましょう」とか「管理の方でルールを作ってください」といいだす人はちょっと苦手だ。これまで自己の判断で自分なりの文脈に沿って判断して行動しているところにルールを入れると、目的や成り立ちを無視して全面的にルールを押し出して横車を押そうとしてくる人が出てくる。確かに、目もあてられないようなひどいことをやってしまうひとを抑えるために、そしてそのことを意識してもらうためにルールを作らねばならないことはある。あと差別している側が気が付いていないケースでも。しかし、ルールを安易に求める人の言い分は「ちょっと自分が不便だから」というパターンが多い気がする。特にちょっとしたコミュニケーションが求められている場面。「あの人だけ、こういう作業をしてもらっているのは不公平だから、みんながそうしてもらえるようにしましょう(頼んだことないよね)」「どちらから計画を立てるかが決まっていないと声をかけずらいので、上が決めて知らせる形にできないか(そちらからお話を持ち掛けてはいかがでしょう)」さほどすごいことではなく、ささいなこれまでの人間関係やちょっとした気遣いで成り立っているものを、ルール化したいというのは、ちょっとがんじがらめで不自由だなと思う。おまけに目的は「手段」そのものなので、同じようなケースで自分が求められる側になるとそれはルールになっていないから断ったりする。
自由は厳しい社会なのかもしれないけれど
こういう風に書いてみると、なぜそのようなルールができたのか知っておけというのは、ある意味厳しい社会なのかなとも思う。みんな自分で考えて、自分で決めて。そんなことやってられないからルールとか基準が必要なのでしょうと。まあある意味海外ではじめてキュウリを選ぶようなことを毎回やっていくのは興味のない分野においてはなかなか骨の折れることだろう。過剰に文脈を読みすぎて忖度なんてことが起きているのも事実だし。でも自分にとってルールや評価の後ろにあるコンセンサスが大事なもの、についてはやっぱり一度その意味を考えてみるといいのではないかなと思っている、人生が色々ままならないのは承知の上で。
我ながらメンドクサイことを随分長いこと考えていたんだなあ。
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