ゴールデンウィークにようやく手に入れた「夏葉社日記」と「長い読書」を読んだ。
ようやく手に入れた、というのは「夏葉社日記」は著者の秋峰善さんがご自身の出版社をたてて作った本で、どこの書店でも並んでいるというわけではないからだ。実を言えば中身については秋さんがnoteで連載されていたので、既にある程度は知っていた。それでも素敵な青い装丁に、おそらく自筆であろう万年筆で書いた題字をみて(そして小さなハードカバーというのにも惹かれて)手に入れたいと思ったのだ。
このところ、読んだ本について書くということをしていなかったし、多分に書評というよりは、本を読んだことで喚起された自分の記憶についての話になるだろう。思いついたことを少し書いてみたい。いずれにせよ、2冊とも大変面白かったので、本好き、本屋好きの皆様には是非読んでもらいたいなというのが結論だ。
2つの本
夏葉社という出版社を知ったのは、島田潤一郎さんの「あしたから出版社」の文庫版を手にした時だ。2年程前に何気なく書店で平積みしていたものを手に取った。ひとりでやっている夏葉社をつくるまでと青春の色々が書かれた本で、「長い読書」は島田さんの最新刊である(本自体はみすず書房から)。
「夏葉社日記」は大手の出版社をやめた秋さんが、憧れの島田さんの夏葉社でバイトをする1年間のお話であり、島田さんへの熱烈なラブレターでもある。そして「長い読書」には「アルバイトの秋くん」という島田さんから見た日々(というか島田さんの中で起きていたこと)が書かれた章が入っている。「長い読書」という本自体は、本に関わる島田さんの散文がまとめられたものだ。
出版されたラブレター
「夏葉社日記」は上にも書いたが、熱烈なラブレターだ。めくるページめくるページに猛烈な喜びとそれが本当に実現していいのかというおそれがほとばしっている。師匠の一挙一動に注目し、一言をぐるぐると回して色々な角度から透かして、真意をさぐっている。読んでいる方としては筆者の肩越しに秋さんフィルターを通した島田さんの動きを見ながら、秋さんのドキドキや冷や汗を一緒に感じているような読書感だ。
上の抜書きにも書いたが、編集者への道が開けない毎日から思い切って手紙を出したら、バイトのお誘いが来た、3か月という話だったのが延長の上、本が作れるなんて!とその喜びの爆発が読んでいて幸せなのだ。組織に属して長い(穢れた)身から眺めると、そんなに繊細(というのか感受性が高いというのか)で大丈夫なのだろうかとか、師匠に習う形とはいえそんなに全肯定でいいのか(失礼)などと勝手にハラハラドキドキしながら読むことになるのだけれど、全力で喜んで、全力で反省して、そして最終的には自分で出版社を作って本にまでしてしまうというそのパワーに、恐れ入りましたということになる。
ただ、もし「あしたから出版社」等島田さんの本を既に読んでいなかったら、ちょっとなんで?というところも多いかなあという気もした。もちろん、そこで島田さんに興味を持ってそこから読むということもセットになっているわけだけれど。「長い読書」のエピソードもこれまでの島田さんの既刊をよんでいることであ、あの人か、とおもうキラリとした瞬間があり、どちらが先でも構わないけれど、まるっと読めるといいなあと思った。
秋さんの本も島田さんの本も、お二人の好きなものへの情熱で満たされている。サッカーしかり、レコードしかり。秋さんの10冊本屋は、自分は何が好きなのかどうして好きなのかということがはっきりでて、面白いなと思って読んでいた。これは「好きな本を10冊だけ選んで本屋をやりたい」という秋さんの夢が実現した8日間限定の本屋だ。自分が10冊選ぶとしたら、そもそも10冊に限定できるだろうか?そしてなぜ好きかなんてじっくり考えたことがあるだろうか。これって最近流行りのひと箱本屋みたいなもので実現できるかもしれない。
「長い読書」の島田さんのエピソード(音楽とか絵とか)を見ていると、ちょっとやそっとの好きではない「すべてを制覇した愉悦」みたいなものもちょっと感じる。お二人の表現の仕方がそれぞれで、秋さんが自分の中の気持ちや思いにフォーカスしているのに対して、島田さんは自分の行動と内在するラベルを付けた思考を淡々と積んでいくスタイルのように思う。同じ時間を共有した二人がそれぞれの書き方で自分について書いている、面白いものを読ませてもらった。そういう意味ではお二人の往復書簡でもあるかもしれない。
本を読む力
夏葉社ではお昼に30分本を読む時間というのがある。おまけに1万円まで経費で本が買えるという天国のような会社だ。島田さんの「長い読書」にも毎日少しずつでもいいから本を読む、それが本を読む体力をつけるというのが最初のお話に出てくる。実を言えば、初めて読んだとき「よくわからなくても30分読む」、「読みはじめたからには最後まで読み通す」というスタイルは怖いなと直感的に思った。島田さんの他の本を読んだ時にも感じたが、自分の本を読むスタイルとまったく違うからだ。もちろん、島田さんのどの本でも、そのように読まねばならないとは言っていないし、すべてそのやり方で読んでいるとも言っていない。おそらく違うことが問題ではなくて、なにか個人的なネガティブな記憶をつつくからかもしれない。
私はどちらかというと物心つくころから本を読むことが好きだったし、基本的に読書は快楽のひとつだ。もちろん背伸びしてわかりにくい本にチャレンジしていた時代もあるし、ただ厚いという理由で長編小説ばっかり読んでいた時代もある。しかし、修行のように読む、ということはあまりしたことがない。読めない時はまあそんなもんかなと思って、明日あるいは何十年か後の自分に託す。おかげで、魔の山も読み終わってないし、失われた時を求めてなんて表紙しか見ていない。まあ、それでたぶん読むタイミングを逃してしまった本もあるのだと思うのだけど、そういうめぐりあわせなんだろうなと思っている。
というのも、本に関しては自分が選び取る、というプロセスがないとろくなことにならないという経験が多いからだ。これぐらい読まないとと小学生の自分に父が買ってくれた本、期待に応えようと頑張って読んで、見事に近代日本文学が苦手になった。友人が、家族が、絶対面白いから読んでと渡してきたシリーズ、パラパラとめくってあんまりその気にならなかったのでしばらく置いたら、何故読まないのかとなじられる。まあ自分が読みたい本がいっぱい積んであるのに、気が向かない本を先に読む気にならなかったのだ。これがおそらく読書に関して強いること(その主体がたとえ自分であっても)を嫌う原体験なのだろう。このあたりがきっとチリチリするのだ。
読む力をつける、というのはきっと本を読みたいと思っているけれど読んだことがない・読める気がしない・何度も挑戦したけど挫折している、そんな人に語り掛けているのだろうと思う。島田さんが本を読み始めるころの話には多くのちょっと拗れてしまったコンプレックスが正直に書かれている。読んでいる本で自分を粉飾する、こんな本を読んでいないなんて、こんな本を読んでいてどう思われるか……。もちろん私も通ってきた道だ。ただ、実際のところ他の人が読んでる本をみて「そんなものを読んでいるのか」なんて思ったことはない。しかし、「そんな本も読んでいないのか」や「くだらない、あまりまじめな本は好きじゃないのか」と言ってきた人はたくさんいる。そしてそれは大抵、修行のように本を読んでいる人たちなのだ。
今思えば、きっと「修行のように本を読もうとして読めなかった人」だったのかもしれないけれど、これがおそらく「わからなくても30分読む」「最後まで読み通す」にピリッと警戒感を感じてしまう正体のような気がする。本を愛する島田さんや秋さんが、そんなことを言うわけがないのにね。
本の話をしたくなった
お二人の本を読んで、好きな本の話をしたくなった。こうやってネットの片隅から、そっと好きな本についての文を放流する今も、「こんな浅い考えで」、「こんなに何もしらなくて」書いていいのだろうかと戸惑うのだが、とにかくこれが好き、良い!読んで欲しいという強い気持ちがあればそれでいいのかもしれないと思わせてくれる。好きなものの理由を言葉にすると、本から受けとったものを少しこぼしてしまう気がするのだけれど、話している相手から違う言葉をもらうと何かが帰ってくる気がする。久しぶりに本好きの友達と飲みに行って、最近のおすすめを語り合いたい。薦めてくれた本を読むのは遠い先かもしれないけれど。
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